福沢諭吉から学ぶ
勉強の大切さ!
福沢諭吉は、「学問のススメ」で学ぶ大切さを説いています。
日本が高等な教育を受けることできた要因は、福沢諭吉氏を始め先人たちのおかげです。
英語でもドイツ語でもオランダ語でも先人たちは、血をにじむような努力で日本語に訳しています。
だから、日本の教育は日本語だけで世界水準の教育を受けることができました。
ただし、生かすも殺すも本人の学ぶ姿勢次第で将来は大きく変わる
ことをいっています。
<以下、『学問のすすめ』口語訳を載せました>
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉があります。
これがもしそのとおりなら、人はこの世に生まれた瞬間からずっと、あらゆる人が同じ地位に立ち、貴賤上下の差別もなく、生まれた時から持っている精神と肉体を存分に使ってあらゆる物資を利用し、衣食住を整え、それぞれ自由自在に、それでいてお互いの邪魔をせず、みんな豊かで気楽に生きていけることでしょう。
ところが今、この世の中を見回してみると全然そうでもなくて、どうも賢い人と愚かな人がいるようです。貧乏人もいれば金持ちもいる。
立派な人も卑しい人もいて、その有り様は雲と泥くらいの違いといっていいくらい。これってどうしてだと思います?
ことの次第は明解です。
『実語教』(註/平安末期から明治初期にかけて普及した、庶民のための教訓を中心とした初等教科書)という本に、「人は学ばなければ知恵がない。知恵がない人は愚かだ」と書いてあります。つまり、賢い人と愚かな人の違いというのは、「学んだ人」と「学ばない人」だという単純な話なんですね。
また、世の中には難しい仕事もあれば、簡単な仕事もあります。私はその、「難しい仕事をする人」を「身分が重い人」と考え、「簡単な仕事ばかりする人」を「身分の軽い人」と呼ぶべきだと思う。あらゆる局面に心を砕いて考え抜く仕事は難しいし、手足を使ってやる力仕事は簡単でしょう。だから医者や学者、政府の官僚、または大きな取引をする商売人、多くの従業員を使い広い農場を持つ大農家などは、「身分が重くて貴い者」と呼んでいいでしょう。
身分が重くて貴ければ、自然にお金も儲かってきて、周囲の凡人から見れば「とてもかなわない」と思うかもしれないけれど、その根っこを辿ってみれば、その違いというのは「学問の力」に行き着くわけで、あらかじめ決まっていたわけではありません。
「天は富貴を人に与えるわけではない、その人の働きに与えるものだ」という諺があります。
つまり前にも書いたように、人間というのは生まれながらにして貴賤・貧富の差があるわけではない。ただ「学問」を頑張って物事をよくわかっている人は立派でお金持ちになり、そうでない人は貧しくて卑しい人になってしまうということです。
ここでいう「学問」というのは、単に難しい字を知ってたり、難解な古文をすらすら読んだり、和歌を作ったり、詩を詠んだりといった、世の中の役に立たない文学なんかを指しているわけではありません。
まあこういった文学も、人の心を楽しませたり喜ばせたりするくらいの効能はあるけど、昔っから世間の学者が言ってるほどにあがめ奉るほどのものではありません。昔から、漢学者が幸せな家庭を築いたという話はあんまり聞かないし、上手な和歌を詠む人が商売もうまかったという例も少ないようです。こういうことがあるから、町人や百姓は、子供が学問を頑張ろうとすると「そんなことやってると身を持ち崩すぞ」と心配したりするわけですね。
まあ無理もない話です。それはつまり、その学問が実利から遠く離れてしまっていて、日常ではまったく役に立たないということの証拠なんです。
だからこそ今(1872年/明治5年頃)は、そういう世の中の役に立たない学問はいったん脇に置いておいて、「実学」というものを頑張るべきなわけです。
たとえばいろは四十七文字を覚えて、手紙の定型句を習い、帳合いの仕方(註/簿記のこと)、算盤の稽古、天秤の取り扱いなどなど。
もちろんここから先はさらに多様化します。
地理学とは日本や世界の風土や街並みを知ることだし、究理学(物理学)とは天地万物の性質を見てその働きを知るもの。歴史とは年代と出来事の羅列からその国の有り様を見出すもので、経済学とは家庭のやりくりから世の中のお金の流れまで説明するもの。修身学は身の行いを修め、人と交わって、この世の中をどう渡っていくべきかを述べるためのものです。
これらのことは、西洋書を翻訳したものがすでにあるから字が読めればそれを読めばいいし、若くて語学が達者なら原書を読んでもいいでしょう。ひとつひとつ、物事の要点をキチンと押さえ、見聞きしたもの、学んだことに素直に従って普段の生活に活かしていくとよいでしょう。
これは特別に頭のいい人だとか生まれが高貴な人に限った話ではなくて、誰もがそれぞれの立場、それぞれの場面で心得ておくことです。(明治維新で身分制度がなくなったけれど)こうした心得を士農工商それぞれの人が実践し、それぞれの仕事に向かうことで、ひとりの人間が独立し、ひとつの家も独立して、
その先に天下国家の独立というものが見えてくるのです。